2011年3月アーカイブ

原発事故による被災

資源の乏しいわが国は、発電の一部を原子力に頼るといいます。
しかし、東北地方太平洋沖地震での福島第一原発の重大事故は大変な問題です。安全を強調してきた国にも重大な責任があります。生活は長期にわたるわけですから、一時的に1ミリシーベルト以下でも、慢性的には被害は拡大します。1000マイクロシーベルト が1ミリシーベルトということや圧力容器とか、使用済みの核燃料を冷却していることなのがわかりました。しかし、現場の作業員が作業できないほどの状況だとか、専門家がよくわからないというのでは心配になりました。とても不安になりました。もしかしたらこの記事を読んでいるときは大変なことになっているかもしれませ ん。官房長官、保安院、東京電力のそれぞれが一つにまとめて情報を発信したほうがいいと感じました。不安ばかり募るからです。50km離れても心配なほどです。
 国は原発事故が起こったとき(大地震でも同様と考えてください)被災した被害者などを単に避難所に追い込むだけではだめでしょう住めない状況だとわかれば仮設住宅を早く安全な場所に設営して、そちらに被災者を移すべきですね。共同生活のストレスも少なくないでしょうから、早くプライバシーの保てる環境づくりを 進めてほしいです。それこそ安心させる急務でしょう。

「したくなかった」と「できなかった」

何かが達成されなかった場合、理由のタイプには「
したくなかった」と「できなかった」があります。

自分の主張を聞いてもらえる機会も結構ありますが、言葉だけでは説明し切れない場合が結構あるんですよね。

少しでも慌てている場合がほとんどであり、そういう理由で上手くできないのもあります。
こういう時に限って、説明を聞く人びとは普段より警戒して聞くんですよね。
目撃者でないと本当か嘘かは分からないので、仕方ないでしょうが。

ただ、説明する側の立場からすれば、もっと詳しい話を聞いてもらいたいんですよね。

疑いを持っているままでいいですが、説明する側が本当のことを言っている可能性は少しでも、つねに考慮に入れておいてもらいたいのです。
最初に書いたことと関連させて言えば、「できなかった」の理由が本当だと考慮に入れてほしいのです。

「できなかった」の主張が確実に嘘だと判断できるように見えたが、よく調べたら本当だった。

ということは、本当によくあることなので。
大多数のする判断であっても、あり得るのです。

もちろん、「確実に本当のように見えたが嘘だった」こともよくあります。
自己判断だけで

「「したくなかった」タイプだ」
「「できなかった」タイプだ」

と終結させず、もう少し考えるべきでしょう。

都内某所に友人たちとピクニックに出かけたときのこと(ピクニックと言ってもバスケットにサンドイッチを包んで持っていくような牧歌的なイベントではなかったのですが、それでもピクニックとしか形容しようがない)、ある公園の広場にてトカゲを発見しました。そのトカゲの逃げ足は異常に遅く、スキップしながら簡単に捕獲することに成功しました。ヤモリなんかは割と目にする機会も多かったのですが、トカゲとなるとやっぱり珍しく、いろいろいじって遊んだり、尻尾を口にくわえて写真を撮ってみたり、トカゲ1匹で30分以上も楽しませてもらいました。そうこうしている内にその無表情なトカゲに対して無表情ゆえの愛らしさを見出し、おぼろげながら情も湧いてきて「これ、家で飼うわ」という運びになりました。

たまたま手にしていた1.5リットルのペットボトルの中の水を捨て、代わりにその場の土と何本かの草を根ごと入れ、ライターで熱したベルトのバックルでペットボトルに空気穴を開けて、本当に家までもって帰ってきました。

それがちょうど今から2週間ほど前の話です。自宅に持ってきてから2~3日は物珍しさと新しいものに対する好奇心とから、かなり面倒見よくお世話していたのですが、だんだんとこの無表情な爬虫動物に対する愛着も薄くなり、扱いもかなりぞんざいなものになってきました。

エサの確保だって相当に面倒臭いんです。基本的には昆虫食らしいのですが(わざわざネットで調べてやった!)、ここ最近の冷え込みの影響か、道を歩いていてもそう簡単に昆虫に出くわすことができません。出てきてほしくないタイミングで顔を出す昆虫たちなのですが(彼女を部屋に招いているときに姿を現すゴキちゃんとかね)、こういうときに限って都合良く陰を潜めています。

でも、元からそういう時期なのですから、彼だって毎日食事にありつけるとは期待していないらしく、数日メシ抜きが続いてもヒーターの前で身体を温めてやりさえすれば元気よく動き回っています。


とりあえず、一人暮らしの部屋には僕と彼(と書いているけどメスかもしれないなぁ)しかいないので、これから仲良くやっていきますよ。夏にはゴキちゃん退治に一役買ってくれるかもしれないですし。。

本「人はなぜ生まれ いかに生きるのか―」

「人はなぜ生まれ いかに生きるのか―新装版・自分のための「霊学」のすすめ」これは江原啓之氏の著書です。題名の問いは誰しも一度は自身に問いかけたのではないでしょうか。誰もが考えたことでしょう。

 とかく我々は現世利益ばかり追求しようとします。年収が高ければ結婚相手の資格があるとか、尊敬されるわけですね。でもお金は死ねば故人が使うことはできません。人はなぜ、この物質的価値を重視するのか?モノがあると豊かで幸せだと思う世界に生まれたのか?その問いの答えを本書で見出せるかもしれません。答えを得られるかもしれません。この本に限らず、精神世界に関する著作物は他にもあります。もっとやさしく書いている本もあります。どれを選ぶか、すべて読むか、それはあなたが決めればいいことです。

 著者は英国でのスピチュアリズムの現状(平成7年?)を取り上げています。また、あとがきには、本書の出版に時間がかかった事情が書かれてありました。その時間にも意味があったようです。著者はテレビに出演したときは笑っていることが多いのですが、それまでは死を意識したこともあったそうです。みなさんも少し読んでみませんか。

砂漠の中の一本道を。。

遠い昔、とある中東の砂漠の一本道を車で走っていたときのこと。車で走っていたとはいっても、自分で運転しているわけではなくて現地人の運転手の荒い運転に身を任せていただけですが。そして、砂漠の中の一本道とは言っても、ところどころに牧草地が点在していて、その周囲には土でこさえた簡素な住宅とそれを囲む人々、そして彼らの生活の糧である大量の羊たちの姿を見ることができました。

そういう風景を眺めていると、なんだか心が無性に苦しくなってくるというか、圧倒的な孤独感に苛まれるのです。そして、そういう感情を抱く原因というのが全く分からない。分からないけれど、そういう現場でノスタルジーにも似た感情を抱くのは当り前だという気になるのです、不思議なものなのですが。

その感情の原因を頑張って考察してみると、「自分の知らない世界で健気に生きている人々の姿に胸を打たれる」だとか、「広大な自然を前にして自分の存在がちっぽけなものに感じられて空虚感を感じる」だとかがすぐに頭に思い浮かぶのですが、そういうのとも少し違っていて、なんというか圧倒的な孤独感なんですよね。。

タイムマシンで小学校時代に戻ってよく遊んでいた女の子(転校していってどこに住んでいるのか分からなくなってしまった)の姿を見かけた。彼女はいま見てもとても魅力的に映るけれど、自分には声をかける資格がないように感じられてしまって、途方に暮れる。例えて言えば、そのような心境に近いんじゃないかと思います。そこで涙を流せば幾分心もラクになるとは思うのですが、そのとき感じた胸の苦しさは涙を流すことを許してくれる種類のものではないんです。どこにも僕を連れていってくれない。だからこそ、辛いわけです。

今もあの風景はあそこにあって、僕の知らない時間がそこに流れているわけですが、それを思っても不思議と哀しくは感じられません。あの場所であの時間を過ごさないと感じないんでしょうね。こうやって僕は歳をとっていく。。

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